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   LIVE HISTORY
   15年間のライブの歴史 part 2

ROLLING STONES
 1990年2月、小学生の頃から憧れ続けていた世界最強のロックンロールバンド「ローリングストーンズ」が初来日をする。もちろんチケットは、発売当初から入手困難。
アリーナどころかプレミアまでつく始末。

  ちょうどその頃、埼玉から芦別に帰っていた友人の「クレイジージョー」ことセイジが実家の電話からダメもとで電話したところすぐにつながりそれもアリーナ席を10枚も予約できたという。
  モノはついでともう一度電話してみるとまたつながり、またアリーナ席10枚。
「やはり、ROCKの神様っているんだな。」と大笑い。
もちろんそんな素晴らしいプレゼントで儲けようとは思わず、友人たちに定価で配る。

 そのあと「ジョー」から電話があり、「おれたちの熱い想いを手紙に書いてキースリチャーズに渡そうぜ。」ともちかけられるが、長年の田舎暮らしでぼけていため、「そんなんでキースに会えるんなら誰も苦労しないべ。」と言ってはねつける。
 ROCKには、奇蹟がつきものだということをすっかり忘れていた。
 その後ジョーは、その熱い手紙をキースの泊まるホテルのボーイに手渡したのだが、もちろんキースからはなんの音沙汰もなかった。
 ライブの前の夜、六本木に行った我々は、手紙に書いたように「ロアビル」の前でストリートをやっていた。
 ジョーは、今夜こそキースは来るはずだと信じて疑っていない。
我々は白けながら「もう夜も遅いし、雨も降ってきたし、そろそろ帰るべ。」といって楽器を片づけ始めた。
と、そのとき不意に後ろから女の声がした。

「ミスターキースリチャーズに手紙をくれたのは、あなたがたですか?」という。
我々がうなづくと、後ろの太った外人を指さし
「彼はキースのオフィシャルマネージャーでトニーラッセルといいます。あなた方にキースからのメッセージを伝えに来ました。」というではないか。
 「キースは今回、家族たちと一緒でスケジュールも詰まっているため、ここへは来ることができないが、私が責任を持ってキースのサインを届けるので住所を教えてください。」とキースのピックを我々に手渡しながらそういった。
 それだけで興奮した我々を後目に、一目だけでもいいからキースに会わせてくれ、とジョーは言い張ったが、もちろんトニーにはしっかり断られた。
あきらめないセイジは「じゃあ、あんたでいいから
俺の歌を聴いてキースに届けてくれ。」と言い、返事も待たずに「ひとりぼっちの世界」を弾き始めた。
 最初は困っていたトニーも、仕方がないといった顔つきで「会えるかどうかわからないが、バックステージパスをあげるので、明日は開演前そこで待機してくれ。」と言って帰っていった。
 大喜びの我々は、ジョーの家に帰って何かプレゼントをしようということになって相談を始めた。
いろいろ考えたあげく、ジョーがオーダーメイドで作っていたオリジナルのストラトをあげることに決定!!。
 次の日、バックステージパスをつけた我々は、入り口の横から入れてもらい、バックステージに用意された飲み物などを飲んでいた。
  そこは、鳥井賀句など大勢の人がいて、なにかプレス関係の控え室らしかった。
 汗だくになって飛んできたトニーに、ギターを渡すと彼は「今日は特に忙しく、おそらく会えないだろう。」といって急いで去っていった。
 拍子抜けはしたが、ここにこられただけでも儲けモノだと思い、そろそろ会場に行こうと腰を上げたとき、またまた奇跡は起こった。
 突然トニーがやってきて、「開演前の短い時間でよければ会えるけどどうする?」といった。
「じゃあ、これはおまえのセッティングなんだから、おまえが会ってこい。」とサイン用の着ていたタンクトップをジョーに手渡した。
 そのあと興奮した顔でジョーは「LOVE KEITH RICHARDS」と書いたサインを持って帰ってきた。
 アリーナ席で夢見心地でモニターとステージを交互に見つめていた我々に、また奇跡が起こった。二度あることは三度ある。
なんと、一度引っ込んだキースが、われわれのプレゼントしたギターを持って現れたのだ。
 本当に夢のような一夜だった。
 芦別に帰ってきたあと、ROCK DREAMを忘れていた自分を心から反省した。
ROCKを愛する者が奇蹟を信じないで誰が信じるんだ?
ROCKの神様すみませんでした。

馬呆 BAHO 
 ストーンズのライブが終わり、キースのサインをディランのトイレに飾ったあと、ROCKの神様によーくおわびして、これからのディランの目標を考えた。
 まず社会人や学生たちが、もっとバンドをやりやすい環境を作ること。
 それは大きく分けて楽器が常時おいてある
練習場の確保、それと発表の場をつくるということである。
 練習場は自宅の隣の納屋を使うことにして、楽器はみんなのものを持ち寄った。
 発表は、芦別をはじめとして近隣の町のいろいろなイベント、そしてライブハウスなどで行う。
 そのためには、まず自分が先兵となって各地へ乗り込むことが一番なので、
バンドのテクニックの向上も優先課題である。
 最後はいろいろとイベントをやってきて一番感じたこと、
リスナーを増やすことだった。
  費用と時間のかかる大きなイベントは、規模の割に集客が難しいので、自分の店ならば、会場費、PAなどの必要もない。
そのため、比較的小さなリスクでライブができる。
大きなイベントよりも本当に音楽が好きな人たちを発掘しやすいのではないかと思った。

  問題はスペースだが、友川かずきの時のように20〜30人くらいならかえって満員気分が味わえるというものだ。
 たばこは吸わないし、ギャンブルもいっさいやめるということで、唯一の道楽として、月一回のライブの赤字くらいは、なんとかなりそうだ。
  心機一転、一発目のライブは何にしようかと悩んでいたところ、偶然テレビで「CHAR」がふたりでアコースティックギターを弾いているではないか。
 「これだ!!」とおもい、「ROCKに奇蹟はつきものさ。」と知り合いのライブハウスに電話をかけた。
 すると何と5月に「BAHO」として、北海道をツアーするという。
ギャラは20万ぐらいだという。
すぐ、お願いしてスケジュールに加えてもらうことにした。

 限定50人ということにして、ポスターを作りチケットを作り、予約を取り始めたが「CHAR」の事務所からは何もいってはこない。
 おかしいと思って電話をしてみると、「今回はそんなに廻るつもりはない」という。
「そんな馬鹿な。」といい、間に入ったライブハウスの名前を云ってはみたが、まったく話にならない。
ものごとが簡単に進むときは、一番怪しいときだ。
今まで何度もそういう目に遭ってきたのに、すっかり舞い上がって忘れていた。
 

 そのライブハウスに電話をしても、「事務所がそういうなら、しかたがないですねぇ。」などと当たり前のようにいう。
実際、この時点で料金を返してキャンセルにすることも可能といえば可能だったのだが、それじゃ、しょっぱなから負け犬じゃないか。
 ということで執拗に食い下がる。
 こっちは負けて元々なので、何も怖い者はないし、
「EDOYA RECORD」にしてみれば、ほとほとまいったとおもう。
 結局、相手が根負けして、「予定より2日早く行きます。それで北海道の予定を調整できるなら、芦別でもやることができます。」といわれた。

予定では、函館からぐるーっと廻って釧路まで行って飛行機で帰るというスケジュールだったのだが、あちこちに電話をして、
芦別を初日にして次の日に釧路へ行き、根室、帯広、北見と廻って最後は函館で帰るという、全く逆のスケジュールを立てた。
 チケットや会場予約の関係で、ずらせないところは別として、ほとんどのライブハウスが快く引き受けてくれた。
それを、「EDOYA」に連絡すると、「伊藤さんには負けました。」といってライブの約束をしてくれた。
 「叩けよ。さらば開かれん。」といったところか。
 当日やってきたCHARは、さすがにかっこよく、ディランのあまりの狭さにびっくりしたようだったが「こういう店も、今はなくなったよな。」などといって珍しがっていた。
 そして一緒に来た「石やん」も普段とライブの区別が付かないほど、おもしろい人だった。
 10坪くらいの小さな店に、スタッフ込みで70人も押し込んでしまい、酸欠状態で素晴らしい奇蹟の夜は終わった。
 打ち上げでは、なぜか「とどの刺身」などを出して喜ばれてしまった。
 そのことは、印象に残ったらしく、何日かあとに出演した「笑っていいとも」でも話していた。
 意外なようだが、CHARが来るといったときの芦別の反応は最低で、売れなくなったミュージシャンのドサまわりといった感じだった。
「CHARも芦別に来るようになったらおしまいだな。」などという始末で、こういう考え方は今の芦別にも根強く残っていて、芦別の嫌いな面の一つでもある。
 とにかくこのライブが、一つの区切りとなってディランはライブハウスの道を歩き始めたのだった。
そしてさらに、この夏もう一つの区切りがやってきた。
 

 PART 3に続く・・